人間万事塞翁が馬とは?まぐれで上手くいかなかったと思っているヒトは己を知らな過ぎる
人間万事塞翁が馬 (じんかん-ばんじ-さいおうがうま)。
ヤンマーが時折思い出すようにしている故事である。
ちょっとしたことで喜んだり悲しんだりしないための戒めの意で使われることが多いが、あえて本来の意味からずらして解説してみた。
この言葉を聞いたことがある人もない人も、是非とも故事からにじみ出る知恵の奥深さを考えてみてほしい。
故事ことわざ辞典による 人間万事塞翁が馬 解説
以下故事ことわざ辞典による引用
【意味】 人間万事塞翁が馬 とは、人生における幸不幸は予測しがたいということ。幸せが不幸に、不幸が幸せにいつ転じるかわからないのだから、安易に喜んだり悲しんだりするべきではないというたとえ。
【注釈】 昔、中国北方の塞(とりで)近くに住む占いの巧みな老人(塞翁)の馬が、胡の地方に逃げ、人々が気の毒がると、老人は「そのうちに福が来る」と言った。 やがて、その馬は胡の駿馬を連れて戻ってきた。 人々が祝うと、今度は「これは不幸の元になるだろう」と言った。 すると胡の馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折ってしまった。 人々がそれを見舞うと、老人は「これが幸福の基になるだろう」と言った。 一年後、胡軍が攻め込んできて戦争となり若者たちはほとんどが戦死した。 しかし足を折った老人の息子は、兵役を免れたため、戦死しなくて済んだという故事に基づく。 単に「塞翁が馬」ともいう。 「人間」は「じんかん」とも読む。
【出典】 『准南子』人間訓
【英語】 Joy and sorrow are today and tomorrow.(今日の喜び明日は悲しみ) A joyful evening may follow a sorrowful morning.(悲しみの朝の後には喜びの夕べが訪れる)
【用例】 「就職試験に落ちたからと言って落胆する必要はない。 人間塞翁が馬 というだろう?」
背伸びしようとしているならまずは自分の背丈、身の丈を知るべきだ
「たまたま上手くいった」とか「うまくいかなかったのは運が悪いからだ」と現実から目を背けるヒトはいつの時代にもいる。
では自分で考えている普通とはなんなのか?
根拠はあるだろうか?
この図は統計学で用いられる正規分布を表したものである。
ここでいう山の中心がmであり、身の丈とと定義しよう。
上手くいったときはmより右に、失敗したときはmより左に位置する。
そのように考えてみると、人間万事塞翁が馬とは身の丈を中心として右や左に揺らいでいると説明することができる。
「最近何をやってもうまくいかない」、「調子が良すぎる」と思っている人は、自分の身の丈はどこにあるのか考えてみよう。
身の丈とは何か?
日本人は「身の丈」にあったことを求められる傾向がある。 身の丈の辞書が示す意味をGoo国語辞書から引用した。
み‐の‐たけ【身の丈/身の▽長】の意味
1せいの高さ。身長。背丈。また、自分の身長。「―二メートル余の大男」「―ほどに積もった雪」
2 (多く「身の丈に合った」の形で)無理をせず、力相応に対処すること。分相応。「―に合った経営」「―に合わせた生活を送る」「―を超える過大な投資」「―外交」
出る杭は打たれるといったところか。
つまり目立ち、出しゃばることを嫌い、無理をせずに周りに合わせることが美徳とされる。
しかし、これだけでは身の丈を理解することはできない。
測定できないが一人一人異なる身の丈が存在することは確かである。
そして、そのおおよその値は実生活で観測可能である。
身の丈の意味をその人自身が理解しない限り、無理難題を他人に押し付けてしまう人間になってしまうであろう。
理想と現実にずれを感じている時点であなたは身の丈をわかっていない
こんなはずじゃなかった。
こんな大学生活だと思ってなかった。
会社のヒトのレベルが低すぎる。
これらのことを感じているヒトは身の丈を勘違いしている。
そのような環境があなたの身の丈なのである。
環境を受け入れられない人はいつまでたっても本来の身の丈を知ることができない。
受験勉強に特化した方に多くみられるが、塾や予備校は言われるがままに競争して、勉強して入学したヒトは学力は上がっても身の丈が上がっていないことが多い。
身の丈を知れば身の丈を伸ばすことができる
身の丈を知るということは、無意識に理解していたことを意識的に考えようとする作業に他ならない。
つまり、今までできていないことに対して、どうすれば実現できるようになれるのか本気で取り組むことができるようになる。
抽象的な話であるが、「無理」について考えてみたい。
ヒトが無理だと感じるのは、確実に身の丈を超えているからである。
しかし、たいていの人間はその「無理」を受け入れられない。
だから見なかったことにしたり、虚勢を張ったりする。
一方、身の丈がわかっているヒトは「無理」を受け入れることができる。
すると、何となく無理だと思っていたことに対して、なぜ無理なのか、何が無理な状況にさせているのかを冷静に分析できるようになる。
ここまでたどり着けば、どうすれば無理じゃなくなるのかを考え付くことは困難ではない。
抜け道やまだ行っていないことに気づき新たなアプローチが可能になるだろう。
このような感受性を持ち、実行している人間は、自然と身の丈が変わっているのである。
具体的な話はOCDAや
靴磨き
で取り上げている。
よく見せたいと思う根源とは何か
人間は見栄を張りたい生き物だとつくづく感じる。
所属、結果、幸福度など、順位を気にしたがる気持ちは大人も子供も大して変わらない。
なぜそこまで気になってしまうのか?
結論を述べると余裕がないの一言に尽きる。
行動範囲が狭まってしまうから、身の丈に関係ない行動をとってしまう。
だから時間>人間関係>金の順で余裕のある人になればよいのだ。
そうすれば勝手に選択肢は増えるだろう。
ここまで理解して身の丈を知ることで初めて、本来の意味である不幸や幸いに振り回されずに生きていけると思う。
最後まで読んでいただいた方は是非もう一度、人間万事塞翁が馬の意味について考えをめぐらせていただきたい。